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志村けんのブログ「ken's blog」 [お笑い芸人・バラエティー]

志村けん.jpg

志村 けん(しむら けん、本名:志村 康徳(しむら やすのり)、1950年2月20日 - )は、日本お笑いタレント司会者イザワオフィス所属。身長:166cm。血液型:A型。

日本を代表するコメディアンの一人で、ザ・ドリフターズの一員。

愛称は「志村」「けんさん」「しむけん」「けんちゃん」「ケン坊」など。


1950年、志村憲司・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が徳川家康を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした。芸名の「けん」は、父親の名前「憲司」に由来する。

小学校時代、運動会で脱糞したことがあったという。東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントをしていたといい、所ジョージ(埼玉県所沢市出身)の遠戚とバンドを組んだこともあった。中学の頃から将来はお笑いで仕事をやっていくことを決心したという。東京都立久留米高等学校に進学する。

1968年、卒業間際にザ・ドリフターズの付き人になった。この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされてしまったと言われる(本人の証言であるが、様々なプロフィールは卒業となっている。一説によれば、遅れて卒業したという)。2007年3月のブログでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている。

初めは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年の2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中を夜中にいかりや本人が帰って来るまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる(いかりやとしては、ちょうど付き人が1人やめて人手が足りない時だったので、すぐに志村の採用を決めたという)。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。

加藤茶の付き人となるが、1年余りで一度脱走(本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけではないため、脱走扱いとなる)し、アルバイトやバーテンダーをしたりしていた。『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の「BISTRO SMAP」に出演した際にはこの時のことを、いかりやの家に行き「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」と言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎!」と無視された、と述べている。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、加藤が個人的にいかりやへ口添えしたところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と、出戻りを認めてくれた。その後しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。無名の付き人だった志村は、運転免許を持っていないため、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま加藤の家に帰り、加藤を差し置いて加藤の母親に晩御飯を用意してもらい、加藤より先に風呂に入るという大物ぶりを発揮していた。

1972年、22歳の時にお笑いコンビ・マックボンボンを結成し、テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演するも、失敗に終わった(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。1973年12月見習いとしてメンバーに加入する。

1974年、荒井注が脱退し、正式にドリフのメンバーとなる。なお、この時リーダーのいかりやは、荒井やいかりやと同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時志村は24歳だった。

ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)はギャグがあまり受けずスランプ状態であったが、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことにより、一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これがいいということで、更にリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌ったところ「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、遂には各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。

ドリフのコントでは大概ボケ役だったのでボケのイメージが強いが、マックボンボン時代はツッコミ役であり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、メインのコントでいかりやの代役としてツッコミ役を演じたこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケ役に立て、自らはツッコミ役に回るコントもあった。1980年代後半以降の自らの冠番組でもツッコミ役が相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、ボケ役はたけしが演じ志村はひたすらツッコんで話を展開させていた。

この頃、同じ渡辺プロダクション所属の沢田研二とのコント内でのやり取りと息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ。

1979年には加藤茶との「ひげダンス」、1980年には「カラスの唄」が人気を博した。

1981年には仲本工事と共に競馬のノミ行為で書類送検された。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭けた金額が1万6千円と仲本に比べてはるかに小さかったことから起訴猶予処分となったが、この事件以降暫く『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、ドリフ大爆笑で加藤茶とのコントで加藤の馬を使ったボケに対し「俺あんまり馬で良い思い出無いんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べた事があるなど、他のコントでも加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。「ダウンタウンDX」に出演した際にもこのことに触れ、事件当時いかりやも賭けに加わっていたことを仄めかすが真相は明らかにしなかった。

1985年に『全員集合』が終了する。1986年に加藤をボケ役、自らをツッコミ役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタートする(~1992年)。『全員集合』を終了へ追いやった裏番組の『オレたちひょうきん族』を逆に終了へ追い込んだ。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)等との活動が多くなる。 この頃から「変なおじさん」に代表されるようなドリフとは一線を画す独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。

1996年9月から10月頃、突如として「志村けん死亡説」が全国的に流れた。インターネットのあまり普及されていなかった時期としては、異例の伝搬だった。同時期、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了している。内容は「群馬県のゴルフ場で急死した」、「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」、「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない」(これは同時期に亡くなった渥美清が、遺言にて四十九日法要が済むまで公表してくれるな、と表記されていた事実からの引用だと言われている)、「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し健在をアピールした。

死亡説流布時、騒動が大きくなったためマスコミへ発表したが、インタビューを含めて殆どが芸能ニュースではなく社会ニュースとして取り上げられた。

『バカ殿』で共演していた先輩コメディアンの東八郎に「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。

1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た時は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事であった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴であった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(変なおじさん、バカ殿等)での出演であったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日にOAされた『わたしはあきらめない』(NHK制作)で語っている。しかし、その後ナインティナインやダウンタウンの番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔でも出演するようになった。

2001年、「けん♀♂けん」として、研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギンギンギン」をリリース。2002年4月、ハロー!プロジェクト所属のミニモニ。と共に「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。

2001年12月、共演していたタレントで志村の「弟子」的存在だった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見及び覚醒剤所持で逮捕された事に対し、桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした。

2005年、ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には志村が三味線、たけしがタップダンスを披露した。

現在では健康オタク、動物愛好家としても知られ、それに関する番組のレギュラーを持つ。そのためか、最近ではお笑いタレントと言うよりコメンテーター色が強くなっている。ただし、現在のトーク主流のテレビ番組のあり方については、自説としていくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけている。


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