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コロッケのブログ「七コロび八起き」 [お笑い芸人・バラエティー]

コロッケ(1960年3月13日 - )は、日本お笑いタレントものまねタレント。 本名、瀧川 広志(たきがわ ひろし)。身長171cm。 血液型B型。

熊本県熊本市出身。熊本第一工業高等学校(現・開新高等学校)卒業。


      コロッケ.jpg  コロッケ1.jpg  コロッケ2.jpg

そもそも
物真似を始めたきっかけとして、本人はピーターの影響を挙げている。コロッケがまだ学生だった頃、テレビのものまね番組などで、ピーターがちあきなおみなどの歌真似を披露していたことが後のコロッケに大きな影響を与えており、ピーターとは現在も親交が深い。他にコロッケ本人が元々、音楽好きだったこともきっかけの一つである。

当初はショーパブやゲイバーなどを中心に活動。熊本での素人時代、あまりの面白さに、「瀧ちゃんよか!」と繁華街から声援が飛ぶほどの人気ぶりであった。その後、上京し、日本テレビの『お笑いスター誕生!!』に出演し、グランプリ獲得はならなかったが(6週勝ち抜きで銀賞獲得)、以降テレビなどでも活躍するようになる。

『お笑いスター誕生!!』出演の頃は、おねえ風の外見や芸風もあって、本物のゲイと誤解され、楽屋で他の出演者が寄り付かず、コロッケの周りには空間ができていた

1985年フジテレビものまね王座決定戦』の出演で一躍人気芸人となり、ものまねタレントの代名詞的存在となる。ものまね四天王の一人としてフジテレビの『ものまね珍坊』にレギュラー出演。またTBSにて自身の冠番組そんなコロッケな!?』→『コロッケ!!噂の芸能界』も持つようになった。

しかし、当時『ものまね王座決定戦』のプロデューサーだった木村忠寛との対立や事務所独立を巡る軋轢等から(1992年3月31日放送の第11回爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャルが最後の番組出演)、1993年より日本テレビ『史上最高そっくり大賞』(後の『ものまねバトル』)』に移ることとなった。同じく『ものまね王座決定戦』のレギュラー出演者であった岩本恭生(現・岩本恭省)や篠塚満由美、さらに司会の研ナオコまでも日本テレビに移動したのはこの時の騒動のためである(これにより『ものまね王座決定戦』は勢いを失う事になり、『ものまねバトル』に視聴率争いで敗れ、打ち切りとなった)。グッチ裕三は、コロッケがフジに出なくなった理由を尋ねられると、「言えねー!」とコメントしていた。ただし、映像は現在でもフジテレビで使われており、かつ2010年頃から『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』に頻繁に出演しており、そこでモノマネを披露する事が多く、遂には同年6月14日放送分で、芸能生活30周年と題して、松山千春の『長い夜』を往年のパフォーマンスを交えながら熱唱した。また対立していた木村とは、『ものまね四天王 オリジナルムービー ひょうたん』の特典映像で四天王とともに共演している。

コロッケは『ものまね王座決定戦』を降板した当時の心境をこう振り返っている。「自分のパフォーマンスができないという、いら立ちもあった。当時、出演者ひとりに与えられていた時間は、わずか1分半。僕のダンスとか取り入れたネタは、4~5分かかり、どうやっても収まらない。しかも、出番1回で1人のものまねしかダメとなると、身動きがとれません。」「本番になった途端、3人も4人もネタを入れたりして。すると、番組スタッフの方から、すごい怒鳴られまくって…。」「やりたいようにできなくても、我慢していれば、とりあえず生活は安泰だろう。しかし、このままぬるま湯につかっていたら、もう冷めるしかない。だったら、自分で湯を沸かせるところを探すべきじゃないか。もう一度、熱い湯に入るには、一度、このぬるま湯を出るしかない。ぼくは頑固な方で、一回こうだと思ってしまうと、もう同じ気持ちではできないんです。」

『ものまね王座決定戦』を降板したことで、他のものまね番組への出演を自粛することになったが、そんなとき「うちに来いよ」と気軽に声をかけて冠番組のゲストに呼んでくれたのが六本木ショーパブ時代に客としてよく飲みに来ていた志村けんである。

1980年代後半、美川憲一のものまねが茶の間に大受けした。美川は1970年代後半以後から人気が低迷し、1984年大麻事件を起こしてからは表舞台から消えていたが、1989年の『新春特番!オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦』にご本人として登場したことから奇跡的に人気が復活。以来、コロッケを「芸能界に帰してくれた恩人」として感謝しており、再び売れっ子となった現在でも芸能界の後輩としてコロッケを可愛がっている。また1991年、『第42回NHK紅白歌合戦』(NHK)に美川が復活出演した際にもコロッケはものまねで登場し、一緒に「さそり座の女」を歌った。

また、NHK総合テレビの『にっぽん愉快家族』で司会共演していた華原朋美朋ちゃん&コロッケとしてデュエットシングル『ありがとね!』を2003年10月22日に発売し、この年の『第54回NHK紅白歌合戦』にも「華原朋美w/コロッケ」として出場した。

10年以上、『NHK紅白歌合戦』には美川憲一のものまね(応援ゲストとして)で毎年出場しているほか、事前番組にも出演している。紅白には縁の深い芸人である。

1980年代、本名の瀧川広志で芸能活動を行っていた事がある。

中日劇場新宿コマ劇場などの大劇場での座長公演を定期的にこなし、喜劇役者として円熟度を増している。

2007年1月27日より新宿コマ劇場にて5回目の座長公演を行う。

俳優の加藤晴彦とは父方の遠い親戚に当たる。(2008年11月20日放送の秘密のケンミンSHOWより)

2009年7月29日の舞台座長公演の記者会見で、中学生のころから真珠腫性中耳炎による聴力障害で右耳の聴力をほぼ失っていることを告白。両親の離婚で母と姉の3人家族となり、生活が厳しくなる。7歳の頃にプールで耳に水が入り中耳炎となるが、病院で治療した。だが中耳炎が再発した際、生活が厳しかった事もあって母に言い出せずにそのまま放置、さらに膿んでしまって耳から悪臭が漂い、学校でいじめられてしまうが、母に迷惑を掛けまいと黙っていた。だが7年後の14歳に耳に激痛が走り、前述の事へ繋がる。会見では「この障害で骨伝導で音を聴くことになったことが逆に音に対する感覚が敏感となり、現在の芸風確立につながっている。またこのことが芸人を目指すきっかけとなった」と語っている。

「自分の顔がでかい」と自虐ネタにしている。

2010年芸能生活30周年記念イベントで全モノマネレパートリーの本人が総出演するサプライズが起きた。


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