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井口資仁(ロッテ)のブログ「TADAHITO IGUCHI Official Blog」 [プロ野球選手]

井口資仁.jpg井口 資仁(いぐち ただひと、本名:井口 忠仁(読み同じ)、1974年12月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手内野手)。

右方向への長打が特徴的な勝負強い打撃が持ち味だが、盗塁王2度、ゴールデングラブ賞3度に輝くなど走攻守3拍子揃った内野手。状況に応じた打撃(右打ちや進塁打)のうまい選手であるため、メジャーリーグではクリーンアップへのつなぎを求められる2番での出場が多かった。2009年、ロッテに移籍後当初は4番で出場。期待に応え、4月に全打順HRを達成している。

 


12月4日、東京都に生まれる。國學院久我山高から青山学院大学へ進学。青山学院大学では1年春からレギュラー(入学当時の主将は小久保裕紀)。同期の澤崎俊和、清水将海、倉野信次、1学年下の高須洋介らと共に全日本大学野球選手権大会優勝を始め多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として大活躍し、東都大学リーグ三冠王やリーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。大学通算本塁打数は24本で、現在も破られていないリーグ記録である。1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、銀メダルに貢献。

プロ野球の各球団の争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名し、ドラフト1位指名を受けて入団。背番号は7。ちなみに同期には松中信彦(ドラフト2位=逆指名)、柴原洋(同3位)や、大学時代チームメイトだった倉野(同4位)がいる。また、青山学院大学のチームメートでは、澤崎が広島1位(逆指名)、清水がロッテ1位(逆指名)で指名され、同一チームから同時に3名のドラフト1位選手が出た。

ダイエー時代

1997年は3月のオープン戦で右足首を捻挫したため開幕には間に合わず、5月3日の対近鉄バファローズ4回戦(福岡ドーム)で、2番遊撃手として初出場。1回のプロ初打席で初安打、4回の3打席目では満塁本塁打を相手先発の山崎慎太郎から放つ鮮烈なデビューを飾った。外国人選手を除き、新人選手のデビュー戦での満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙だった。しかし順調な滑り出しとは裏腹にその後は2割台前半の低打率に苦しみ、主に下位打線で起用されるようになった。そのオフにはハワイ・ウインターリーグに松中らと共に派遣され、ウエストオアフ・ケーンファイアーズに所属(背番号25)した。1998年は21本塁打を放つなど広角に打てる長打力があり、「恐怖の9番打者」と言われた。

1999年は開幕から3番を任されるものの、その後は低迷し例年と同様下位打線で起用されるようになる。しかし優勝争いの中でサヨナラ打を3度記録するなど勝負強さを発揮した。9月8日の首位攻防となる対西武ライオンズ26回戦(福岡ドーム)では西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打を、試合前に西武が破れマジック1で迎えた9月25日の対日本ハムファイターズ26回戦(福岡ドーム)でも金村暁から決勝本塁打を放つなど、福岡ダイエー初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。

2000年、シーズン中に左肩を負傷し、手術を行い長期離脱。日本シリーズで復帰するが、守備に定評のある鳥越裕介の1軍定着により、こだわりを持っていた遊撃手のレギュラーを剥奪され、遂には二塁手にコンバートされる。優勝旅行にも参加せず、オフに登録名を本名の「忠仁」から「資仁」に変更して飛躍を誓った。

2001年、強力打線の3番に定着。打率は.261ながら史上3人目の30本塁打・40盗塁を達成し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。強肩、俊足を生かしたセカンドの守備も評価され、ベストナイン、ゴールデングラブ賞にも輝いた。この年、井口の他に小久保裕紀が44本塁打、松中が36本塁打、城島健司が31本塁打し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップ日本代表に高橋由伸、井端弘和、高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと共に選出され、3番二塁手として出場した。

2002年は打率.259に終わったものの、そのオフ城島と共に金森栄治スコアラーに指導され、「より引き付けて打つ打法」に変更。2003年にはそれまでの粗いイメージを覆し5試合連続猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成。1番村松有人、2番川﨑宗則とともに盗塁を量産、終盤に村松が骨折で離脱したこともあり再び盗塁王に輝く。さらに4番松中、5番城島、6番ペドロ・バルデスとともに史上初の100打点カルテットを形成するなど、3番としてダイハード打線の中軸を担い、最終的に打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁。2度目のベストナイン・ゴールデングラブ賞にも選ばれた。3年ぶりのリーグ制覇、4年ぶりの日本一に大きく貢献。日本シリーズ優秀選手にも選ばれた。

2004年にも打率.333、24本塁打、89打点とレギュラーシーズン1位に貢献したが、チームはこの年導入されたプレーオフで敗れ、リーグ優勝は逃した。このオフ、契約書の特約条項に基づき自由契約となり、メジャーリーグ挑戦を表明した。

メジャーリーグ時代

シカゴ・ホワイトソックス時代

2005年、シカゴ・ホワイトソックスに入団。4月4日の開幕戦、対クリーブランド・インディアンス戦(USセルラー・フィールド)に2番二塁手として初出場。開幕2戦目となる4月6日の同じくインディアンス戦では、ケビン・ミルウッドからメジャー移籍後初安打を二塁打で記録(同試合で初盗塁も記録)。5月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦(USセルラー・フィールド)では、左腕のブライアン・アンダーソンから左翼席へメジャー移籍後初本塁打を放った。

その後も2番二塁手に定着し、1番のスコット・ポドセドニックと共にホワイトソックスの「スモール・ボール(監督のオジー・ギーエンはスマート・ボールと呼んでいた)」を牽引し、チームの5年ぶりの地区優勝に大きく貢献。ポストシーズンでも10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカン・リーグ・ディビジョン・シリーズ(ALDS)第2戦(USセルラーフィールド)で決勝の逆転3点本塁打をデビッド・ウェルズから放つ活躍などを見せ、US移籍1年目でワールドシリーズに出場。日本人選手としては、新庄剛志、松井秀喜、田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となる。ワールドシリーズも制し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した。しかし伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。ただ、ワールドシリーズでは不振のため最後の打席後に交代したため優勝決定の瞬間はベンチにおり、「優勝した瞬間グラウンドにいたはじめての日本人選手」は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。

2005年オフにはワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出される。当初は出場を前向きに検討するコメントをしていたが、出場表明後NPBから何の連絡も無いことに不信感を持ったことや、メジャーでクリーンナップを打つという夢に向けての調整をしたいこともあり出場を辞退。代わりに宮本慎也が選出された。日本のWBC優勝については「コメントする資格は自分に無いが、日本人として嬉しい」と述べ、多くを語らなかった。

2006年には18本塁打を放ったが、これはアメリカンリーグの二塁手では最多であった。

2007年7月27日、右手を骨折したチェイス・アトリーの代役としてマイナー投手のマット・マロニーとの交換トレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍。フィリーズではアトリーの復帰まではスタメンで二塁手を務めたが、アトリーの復帰後は主に代打での出場となる。そのため、フィリーズのナショナルリーグ地区シリーズ敗退後には「現在永住権申請中であり、来季は二塁手のレギュラーとして起用してもらえる球団を中心に移籍先を探す」旨の発言をしている。

同年12月18日、サンディエゴ・パドレスと1年契約。2008年は4月中旬に32打席連続無安打になるなど絶不調に陥ったが、4月26日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦(ペトコ・パーク)で日本人選手史上2人目となるサヨナラ本塁打を記録。5月16日のシアトル・マリナーズ戦(セーフコ・フィールド)ではダイエー時代の同僚城島健司と2004年10月1日のパ・リーグ・プレーオフ・セカンド・ステージ対西武5回戦(福岡ドーム)以来1313日ぶりにアーチ(本塁打)を競演。その後も正二塁手として出場していたが3安打を放った6月5日のニューヨーク・メッツ戦(ペトコ・パーク)で、走塁中に転倒、右肩を脱臼。6月6日にメジャー4年目で初の故障者リスト入りとなった。8月2日に復帰したが脱臼した右肩の影響などで調子が上がらず、9月1日にパドレスより戦力外通告を受けた。 9月5日、古巣であるフィリーズと契約。その後、フィリーズはプレーオフに進出するものの井口の入団はプレーオフ出場選手登録期限後のため出場資格は無かったが、フィリーズがワールドチャンピオンに輝いたため幸運にも田口と共に2つ目のチャンピオンリングを手にすることになった。

ロッテ時代

2008年11月15日にFAとなり、日米の複数球団との交渉の末、2009年1月20日、千葉ロッテマリーンズに入団[1]。背番号は6。落合博満や初芝清らが付けていた番号であり、「偉大な番号をいただけて、本当に光栄。この番号に恥じないプレーをする。」とコメントしている。

2009年2月1日から始まった石垣島での春季キャンプでは、ダイエー時代に行っていたアーリーワーク(朝練習。メジャーでは怪我の恐れなどから禁止だった)を竹原直隆と2人で敢行。

開幕から4番を担い、2009年4月7日には史上7人目となる全打順本塁打を達成した。この本塁打は自身のNPB通算150本塁打でもあった。


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