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アレックス・ラミレス(巨人)のブログ「ラミちゃん日記」   [プロ野球選手]

アレックス・ラミレス(Alexander Ramon Ramirez、1974年10月3日 - ) は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手外野手)。

愛称はラミちゃん。


    アレックス・ラミレス2.jpg  アレックス・ラミレス1.jpg  アレックス・ラミレス.jpg

実家は
ベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。当地の人口は約200人で、うち3/4ほどがラミレスの一族だという。

ラミレスは5歳のときに兄の影響で野球を始め、8歳のときに地元のリトルリーグの監督にスカウトされ、15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていたが、18歳のときにベネズエラの国内選手権に出場した際にたまたま外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりチームと契約する。1994年2月に現在の夫人と結婚。

1998年にメジャーに昇格し、2000年にはウィル・コルデロとのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。ラミレスによれば「打撃コーチに打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。

2001年、ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団。当時ラミレスはフロリダで家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いでローンを返済したらすぐに戻ってくる」つもりだったという。1年目から打率.280、29本塁打、88打点の好成績を残し、主に7番左翼手としてチームのリーグ優勝及び日本一に貢献。ちなみに当初チームと結んだ契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時のヤクルトで右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼には勝てない」と感じ左翼手に転向したとのこと。

2003年、読売ジャイアンツに移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、打率.333、40本塁打、124打点で打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。

2004年末には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあってチームに残留。その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。

2006年は26本塁打112打点を記録するものの、636打席で19四球であり、.289とセ・パ両リーグの中で最低の出塁率であった。

2007年10月4日、横浜ベイスターズ21回戦(神宮)において、外国人選手、右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成。最終的にはセ・リーグ歴代最多の204安打を記録した。打率も.343をマークした。シーズン終了後、ヤクルト側との契約の折り合いがつかずに退団が決まり、11月30日に自由契約公示。約1ヶ月後の同年12月29日、巨人への入団が正式に発表された。巨人初のビデオレターによる入団会見となった。入団会見に際し「このチームに足りないものを加えに来た」とコメントした。

2005年からの3年契約を結んでいたヤクルトとラミレスだが、2005年及び2006年の成績は推定3億円の年俸に見合った成績とは言い切れなかった。しかし、2007年は打撃スタイルの変化により右打者として初の200本安打、セントラル・リーグの最多安打記録を更新。だが、球団側はラミレスとの交渉に消極的であった。シーズン終了後、球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、推定年俸4億円というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。

報道によるとラミレス側はシーズン終盤にもかかわらず残留要請が無かったことを不満に思っていた。7年在籍した球団に対する彼の希望は、高年俸ではなく契約年数であり、球団側が複数年契約を認めていれば残留するという選択も考えていた。実際ラミレスは後に「現状維持の2年契約の提示があれば残留していた」と記している。しかし前年、引き抜き阻止のためにアダム・リグスやディッキー・ゴンザレスの2選手と2年契約したものの、両者ともが故障や不振で満足のいく成績を残せずに終わったこと、過去ラミレスと複数年契約を結んだ場合に最終年以外の成績が満足できる結果ではなかったことから最終的に球団側は複数年契約を提示しなかった。

また、ラミレスの交渉が早く打ち切られた背景には、この年に最多勝のタイトルを獲得し、防御率も2位の好成績を残していたセス・グライシンガーとの交渉を控えていたことも一因だった。監督の古田敦也、石井一久など主力選手の大量退団、また本拠地明治神宮野球場の外野拡張工事などによる野球スタイルの変化を考慮し、この年のエース、グライシンガーと功労者のラミレスを天秤にかけた苦しい選択であった。結果的にはグライシンガーもラミレスと同じく巨人に移籍した。

自由契約となったラミレスに対し、右の大砲を欲していた巨人やオリックス・バファローズが食指を動かしていたが、オリックスは西武を退団した一塁手のアレックス・カブレラを獲得したため、巨人がラミレスと契約した。推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)であった。ラミレスはそれ以前から「巨人では外国人選手がみんな大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は「一番行きたくないチーム」であったが[9]、巨人が自らの希望する複数年契約を提示してきたことに加え、原辰徳監督の指揮に以前から興味を持っていたこともあり巨人入りを決めたという。

2008年、当初5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕からコンスタントに結果を残し、4番候補で左打ちの強打者であるイ・スンヨプや高橋由伸がケガや不振に苦しんでいた事もあり、主に4番で起用されるようになった。前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得。2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。この年、フリーエージェント資格を取得した。

2009年は全試合で4番に座り、前年に続く活躍。3割30本100打点を達成したほか、自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。チームの3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。シーズン通しての調子のムラも少なく6月以外の月間打率はすべて3割以上だった。また7月以降の打率は.343だった。同年の日本シリーズで、観戦に来た小笠原道大の娘にファウルボールを当ててしまう。翌日「ゴメンナサイ」と書いた自身のサインボールを小笠原に渡した。


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